革新知能総合研究センター

先般、東京商工会議所荒川支部の視察会で理化学研究所を訪問。認知症予防のための会話支援手法、共想法に基づく会話支援ロボット、遠隔会話支援システムを体験した。AI研究の一つとして加齢とともに低下していく認知機能を現状維持するようにルールを加えた会話によりロボットと対話するというもの。認知症の予防としてのアプローチである。一の問題は本人が認知症になっていることが理解できない。会話により外部から刺激を与えて進行を遅らせる試みのひとつであるがAI化していくには相当のデータの取得が必要に思われる。この研究所は知能に特化して人工知能について研究しているが研究費には苦労しているようだ。特に女性AI研究者の育成に支援が必要とのこと。加齢とともに身体の衰えの見える化も必要と感じる出来事があった。足立支店にて産廃の写真を撮っているとき何でもない低い脚立に乗り、トラックに足を掛けた時、体重移動が上手くできなくて脚立から落下し腰、肘そして頭を地面に強打してしまった。転倒することなどありえない時間を過ごしてきたが、これからは段差に気を付けようと心に誓った。加齢の進行は自分では気が付かないものだ。脊柱管狭窄症の術後のリハビリを週に3回病院に通っているが目に見えての回復が遅々として進まない。筋肉の衰えの復活は大変な時間が必要だ。頭脳のほうは年間数百人と名刺交換をしており、色々な業界の経営者と会う機会が多いので会話に不具合がでれば指摘されるだろうと安易に考えている。心配なのは社員が指示待ちでしか仕事を進めていない者が若干、年とともに増えている気がする。バブルがはじけてからの創業である故、何でもできる出来ないは別にしてチャレンジしてきた。今でいうブラック企業なんて言葉もない時代。生きるためには先ずは行動、止まれば死を意味することぐらい毎日が勝負と思っていた。今年も昇給を考えるが原資は売り上げだ。業界の競争に打ち勝つには会社全体の実力を冷静に俯瞰して平均値をどう上げるかが肝だ。

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令和6年度期末

2011年3月11日に東日本大震災による一貫として福島原発の事故から14年経った。事故からすぐに復旧のための人員確保や体制などの得意先より問い合わせがあり翌月には現場に行く工程が組まれた。今になって忘れれないことは協力会の先輩会社のいくつかは現場復旧の派遣について断った会社があった。こんな緊急事態によく断れるなと不思議な感じを持ったことは事実だ。以前にも創業時に助けられた経験から困ったときはお互い様の精神が頭をもたげ、当社は先ずは社員の家族に説明して了解のもとに復旧作業チームを作り体制を組んだ、現場は想像を超える環境の中で年間延べ700人を超える人数で任務を完遂した。これほど社員、家族を誇りに思ったことはない。これがターニングポイントとなり高圧地中送電ケーブルの工事分野に取り組む第一歩となった。これらの緊急事態に協力しなかった数社は現在は廃業してしまっている。仕事は山あり谷ありであり特に周囲が谷の時に自分の立場を超えて出来ることは何でもやることが世の中の役に立つことを再認識している。ケーブル工事は装置産業だ。一昨年、数千万するウインチカーを2年がかりで発注、現在稼働しているが投資回収には何年かかるかは計算していない。計算しても絵に描いた餅、ではどうするか?回収を早めるには二つ、稼働率をどのようにして上げるかとこの会社の規模で自社でウインチカー持っている会社のステータスのPRが大事だ。投資をしない会社は存続しないことは過去の例でいくつも見聞きしている。そして、これからの労働力不足はどの業界も共通しているが働き方改革など昔で言うホワイトカラー的な発想の方向転換をしないといつかは大停電が必ず起こる。それが心配だ。。

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電大経営同友会月例会

昨日、母校の経営同友会の月例会で持ち回りのスピーチをする機会があった。何を話そうかと過去の資料を探していたところ2年前に日暮里工業会からの依頼で工業団体連合会に会社について題材は何でもよいのという投稿依頼がありその時に書いた文章があったので創業からの想い出というテーマで会員に話をした。その文章を転載する。今年で創業32年、当時を思い出し振り返る。学生時代から30歳で社長になるという裏付けのない幼い夢を持っていた。とりあえず会社勤めをしようとメーカーに入社。二つ目の転職した会社で新規事業を任され15年間で何とか軌道にのせたが30代後半になっていた。ふと考えたとき、このまま勤めていても役員になれても社長は無理という現実がわかり40歳手前で突然に退職届、18年間のサラリーマン生活を終える。そして次は何をやるか考えずに地元荒川区で創業。三畳一間くらいの倉庫を親父から無償で借りて中古の机を二つ買い電話機1台を置いてスタート。ひじ掛け椅子に座り、社長になったとご満悦。当たり前だが電話機が壊れているかと思うくらいベルが鳴らない。それからは戴いた退職金は羽が生えたかの如く飛んでいく。収入は無いので土日は宅配便会社でアルバイトの日々を過ごす。この窮状を知ってか知らずか有難いことにそれまでお付き合いのあった会社から今迄やったことのないカタログ作製や太陽光発電の普及見通しや動向調査などレポート作成の依頼があり何とか食いつないだ。今考えると助けるための口実であった。この件があり今でも自分の責任で出来ることは何でも困った人の助けになることをやろうという礎になった。そうこうしているうちに大学の先輩から東京電力さんを紹介いただき、その繋がりで関電工さんの協力会社になることが出来た。本当にご縁に感謝だ。また機会をつくり続編を書いていきたい。

 

 

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術後リハビリ

23年4月末に都立駒込病院に入院、脊柱管狭窄症の手術を行った。術後の定期健診では埋めたチタンネジの固定も変化なく腰痛も治り、足の痺れも無くなった。しかし、昨年の10月頃から右足の筋肉の衰えからか足の指先が思うように開かなくなりはじめ歩行もぎこちなくなり、会社近くの整形外科リハビリに通うようになった。週に3回20分ほどのマッサージや屈伸など筋肉回復のリハビリを行ってきた。最近やっと小指が自分の意志で動くようになり、歩行も通常に戻りつつある。この年齢になり筋肉を付けるということは想像以上に時間がかかる。ゴルフはお医者さんが言うには自分のリスクでプレイするならいいよと言われているので怖くて全くスポーツはやっていない。余計に筋肉は衰えるばかりだ。ゴルフは決して人並みとは言えないがコンペには積極的に参加してきた。人脈創りには最高のスポーツだ。普段会えない上場企業の役員と一日行動を共にする機会はゴルフしか無い。この点だけは悔やまれる。2月は誕生月だ。この年まで会社を経営しているとは思いもよらなかった。大学を卒業するときに30歳で社長になるという単純な知能。今考えると子供じみた発想であったがなんと今でいうフリーターを1年やり、当時市ヶ谷にあったCBSソニーのディレクターのアシスタントをやりスタジオの手配など雑用をやっていた。当時は森田公一とトップギャランやピンクレディのデビューなどの時期でもあった。この世界は才能が無いと全く生きていけない。自分の無力さを実感した年でもあった。この後、生活のためサラリーマンに戻り、卒業後18年経っていた。40歳直前にこの会社にいても良くて役員止まりと思った瞬間に辞表を出して退職。格好よく起業となったが全く仕事などあるわけがない。休日には宅配便のアルバイトで日給6800円で凌いでいた。こんな事をリハビリ中、たまに思い出す。さあ、早く筋肉を付けよう。

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エスカレーションと報連相

エスカレーションとは障害対応やクレーム対応の時、担当者が勝手に判断しないように上位者の指示を仰がなければならない。それは会社全体で一貫した方針で行わなければ事態は悪化する。しかし、都度トップに判断を仰ぐことは物理的に困難だ。特に現場においては対応が難しいが基本は一人作業は厳禁だ。ちょっとの時間を取り、周囲の経験者や責任者に判断を仰ぐことは一呼吸おいて見渡せば出来ること。これは慣れが邪魔をする。この慣れが失敗の大きな原因となる。基本は報告連絡相談だ。本ブログでも何度と取り上げているが当たり前のように仕事をしているが偶々ミスが表面化しないだけだ。報告は特に上位対応者に対しては必然。個人の失敗は会社全体の信用に直結する。仕事は山と谷が交互に訪れる。自分では常に忙しいと思っていても誰しも忙しい時間は限られている。報連相を行うことで自分が発信源となるリスクが低減する。リスクといえば昨年の仕事納めに結膜炎となり片目から両目に感染し、お正月は目薬り三昧の日々を過ごした。完治すると今度はの喉の異物感と痛みが続き、耳鼻咽喉科を受診し薬を貰うとあっという間に治ってしまった。他人に対しては自己管理が必要と言っていながら言うは易しと反省している。今週の日曜日は尾久消防団の始め式に参加。日頃の訓練を通しての団結を身近に感じる正月明けの引き締めにぴったりの式典だ。例年のごとく2月いっぱいまで新年会が続く。お世話になった先輩諸氏が年々少なくなっている。健康第一と思う時期でもある。

 

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令和7年仕事始め

仕事納めから昨日で8連休という長期に渡る休みの後、仕事始めとなる行事の最初は荒川区新年祝賀会に参加。年初めから開催場所を間違えてサンパール荒川へ行くとガランとした雰囲気。ロビーに行くとフロントからアートホテル日暮里ラングウッドですよと言われ慌てて移動。何とか受付を済ませて区役所の部課長、副区長、区長に新年の挨拶を済ませてトンボ帰り、毎年恒例としている尾久八幡神社に社員全員で安全祈願を無事済ませた。二人の社員の都合で全員とはいかなかったがこれから一年の安全を誓う。今日は14時から安全引き締め対話を行うが昨年暮れに社員一人一人に3年後の目標を発表してもらう。以前、今年の目標を提出してもらったが結果はどうなったかは検証していないが、1年間という短期ではどうしても資格取得とか身近な目標に偏りがちである。個人的には大学を卒業するときに8年後、30歳で社長になるという目標を立てた。しかし、大事な年ごとの計画など曖昧であった。結果、遅れて40歳で起業となった。大リーグの大谷翔平さんが立てた年齢ごとに段階を踏まえての計画などに及びもしないが目標までに何をすべきかを考えるためにはある程度の期間が必要だ。目標を創るということは夢を実現する第一歩。夢は自分の家族や会社の事、将来の自分の立ち位置など先ずは自分を含め関係する人々が幸せになることが究極の目標。そのためには年齢に沿った計画が大事。今年は巳年、蛇は脱皮をしながら成長していく。会社も過去の失敗成功を繰り返しながら成長するもの。そして大事なことは仕事は与えられるものでなく自分で取りに行くもの。その見返りが給料となる。昨年一昨年と過去に拡大してきた事業を整理してきた。今後はこの会社にしかできない事業に絞り込み、オンリーワンを目指していく。

 

 

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令和6年仕事納め

平成4年創業だから32回目となる仕事納め。コロナ禍が落ち着きを始めた令和4年、5年は創業以来の収支の悪化であった。原因は公共事業の案件で思いもよらない大幅な支払いが発生したことが大きい。現場担当にしてみれば何とか施工内容を原設計に基づき完工したいがため過剰な人員を投入した結果だ。やはり身の丈に合ったというかコミュニケーションの取り方に問題がある。言われたら何が何でもやるという精神は大事であるが代案をだして会社のためになる知恵出しが必要。令和6年は創業以来、多角化してきた事業の整理のスタート年となった。環境測定事業は法律の改正がありアスベストの環境測定は事前の建材に含まれているかという現実的な測定に変更になりその市場は広がると思えるが人員が足りない。体制が出来ている企業との競争には出足で差が出てしまうので撤退した。その人員は電力関連事業に移動したため会社全体としてはパワーアップとなっている。高齢者の見守りとしてスタートしたネットミルは荒川区の指定商品となり区内での市場獲得率はほぼ独占できるまでに成長してきた。しかし、契約条件として緊急駆けつけ出来ることがが絶対条件のため警備業の資格を取得し、提携警備会社に駆けつけを依頼するという仕組みを作った。残念なことに提携先の警備会社が移転することになり機械警備業の縮小という会社方針によりいきなり事業提携の解消といわれ止む無くネットミル事業も体制の整った警備会社に引き継ぐことになった。社内で24時間体制を作ることも検討したが警備員をあらたに7名程度常勤させなければならず只でさえ募集しても集まらない状況の中での直営化は断念した。一方でネットミルの安全安心事業の一環としてオレオレ詐欺用の録音機の取り付けや街頭防犯カメラの設置も区内の指定会社として地位を築いたので社内人員体制は変わらずに移行している。この数年は山あり谷ありを経験した貴重な年でもあった。

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東防連委員会

東京防犯協会連合会の長寿社会対策委員会に出席してきた。議題の中でも特に高齢者を狙った特殊詐欺の実態を知った。自分自身も高齢者の仲間入りをしているが人をだます手法は年々手が込んでいる。会社に架かる電話はほとんどM&Aか株、マンション投資話が多い。そんなに儲かるならば自分でやるのが第一だ。と思えば未然に防げる話ばかりだ。汗をかかないで儲けることはありえない。闇バイトもしかり、なぜ簡単にお金が稼げるか疑問を持つことが出来ないかを一呼吸おけばわかること。こんな簡単な仕組みに引っかかるのはコミュニケーションが成り立っていないことが要因のひとつ。そして身近に相談する相手がいない。一番の問題は高校、大学を卒業する前に教育の一環として詐欺の実態を勉強させる時間が絶対に必要だ。以前、退職した社員の中にもお金の問題でにっちもさっちもいかなくなり消えていったものがいる。結果として正直に言ってもらえば解決できる話が多い。翌日は母校である電大経営同友会主催の特別講演会、特殊詐欺とは無縁のカーボンニュートラル社会に関連した講演。日本の食料自給率、エネルギー自給率からはじまり行くところは脱炭素化をいかに持っていくかが課題。次の日は電力協会の忘年会に出席。ここでも電力使用量の現状についての話題。エネルギー問題は国策として整理し方針を示さないと安全な国にはならない。世界の戦争の根源はエネルギーの確保のための領土拡大に尽きる。今年も残るは3週間あまり、社員には来年の仕事初めに各個人の3年先の目標を発表してもらう。目標を考える習慣は今までにはないと思う。個人としては大学卒業したら30歳で創業と目標を立てた。できる出来ないは別として自分の未来を考える良い時間になってほしい。

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渋沢栄一講演会

11月22日(金)、サンパール荒川にてチームアスカ主催による第1回記念講演会を渋沢資料館顧問の井上潤氏を講師に迎えて行う。渋沢スピリッツと人物像を中心に開催した。想定以上の来場者で満席となった。さすがに井上講師は渋沢資料館で40年務めた経歴での知識は凄いの一言。渋沢栄一翁は500の会社創立に関わり600の文化、福祉、大学などにも名を連ねた偉人。改めて日本の経済界の基本を創った人物。共通していることは思った通りに突き進む精神力と人脈創りが誰も真似することは出来ない。本では得られない話が多く、大変な段取りや調整で苦労したが結果が見えて満足の時間であった。この翌週から警察、消防の外郭団体の研修旅行が続いてイベント疲れがピークを越えた週でもあった。12月はコロナ禍も収まりつつある中、関連団体の忘年会が14回続くが元来、人と会うこととお酒が大好きなため今月来月と楽しみな月でもある。会社のカレンダーも11月に納品され今はカレンダー配りの毎日。今日は地元の八幡神社やお寺にご挨拶がてらにカレンダー配布した。年末に近くなると訃報の通知も届く。年代も私がお世話になった方で80代が多い。最近思うことが亡くなったらどこへ行くのだろうと子供の質問のようなことが頭に浮かぶ。生まれてから人間は一定の年齢になると逆算が始まるようだ。一定の年齢は80歳くらいだ。そこからドッグイヤーぐらいの速さで土に戻ると考える。残された時間をどう過ごすかが大事な年齢になって来た。

 

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ブログ16年

ホームページにリンクさせたブログの書き始めは2008年1月がスタート。親父の葬儀をきっかけに今まで16年間1383通書いてきた。ブログソフトの変更に時間がかかり毎月の投稿数も激減している。逆に言うと生活等変化に乏しい年齢になってきているので話題が少なくなっていると同時に厳しくなっている個人情報の制限もあり具体的な表現の制約が頭をよぎる。最近の日課は脊柱管狭窄症手術の後遺症による右足指先の筋肉の衰えで歩き方が不自然になっている。このリハビリのため会社近くの整形外科に週3回通い、自宅でも朝と晩に同様の運動を行っている。ゴルフコンペは今でも会費は納入しているが5年以上コンペに参加していない。お医者さんにゴルフプレイの再開はと聞くと自分のリスクでで判断してくださいと微妙な返答。この言葉は重い。ゴルフは一日の付き合いのため人脈の拡大には欠かせないと思っているので残念だ。創業して32年になる。新規事業として立ち上げた事業も思い描いていた拡大には至っていないため撤退を決めた一年でもある。立ち上げも大変であるが縮小も大変な力が必要である。しかし、自分としてはちょうどよいタイミングであると感じている。事業は流れを作り幅を広げ深さを掘り下げ長くしていく必要がある。この作業の引継ぎは並大抵のパワーでは不可能と思っている。自分で創ったものは自分で終うことが出来る時間を逆算計測して判断し実行できることが責任と思う。最近の政治の世界は言うだけで誰も責任は取らない風潮。先頭に立つものは常に一番後ろにいる人の歩き方も注意して見ながらまとめていく気配りが大事だと思っている。

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